演劇と珈琲、本と酒。

演劇とか珈琲とか本とか酒とかについて綴られるはず。

遊園地再生事業団『子どもたちは未来のように笑う』

遊園地再生事業団『子どもたちは未来のように笑う』

を観劇。於こまばアゴラ劇場

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テーマは「妊娠と出産」である。

「その日、世界中でたった一組しかセックスをしていなかった奇跡的な十五分があった。女は幸福な妊娠をする。それはたった十五分間の奇跡の子といっていいだろう。女たちを取り巻く社会は刻々と変わってゆく。政治が変わろうとしていた。戦争が間近にある。だが、母親の胎内にいる奇跡の子どもは、まだなにも知らず、羊水のなかで笑っている。多くの子どもと同じように、女たちは気づくのだ。自分たちが不安に思っているあいだも、子供たちは笑っている。」(劇団hpより引用)

 冒頭からセックスシーン。

当たり前といえば当たり前なのだが、この奇跡的で幸福なセックスなしには物語は始まらないし、なんなら人はセックスしないと生まれない。(劇中、処女受胎を想起させるシーンがあるが、何かの寓意だろうか。)

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ざっくばらんを承知で物語の筋を追うと、女性(冒頭のセックスによって生まれた子)が身ごもった子には染色体異常があることがわかる。女性は産むか産まざるか苦しみ、悩み、最終的には産むことを選ぶ。が、生まれたその子を取り巻く環境は決して良いとはいえず、喜ぶ本人をしり目に、周りの人間は彼女を哀れんだり、生まれた子を殺そうとしたりする。

上記の筋が時系列逆転で、現在から過去へ至る形で物語は進行してゆく。すなわち、クライマックスにて女性は子供を産むということを決断するのだ。観客はその子がたどる運命を知っているために、この仕組みはどこか皮肉めいた作者の意図が感じられる。

 

また劇中、古今東西の名著や女性雑誌のインタビューをふんだんに引用し、俳優がそれらを適宜朗読する。これは、物語を際立たせる演劇的仕掛けとして十二分に作用していた。観客は引用によって目の前で起こっている物語と距離を置くことができるのだ。夢野久作ドグラ・マグラ』の引用と落合博満『采配』の引用には笑った。

 

この作品の含意はたくさんある。その中でも私が強く共感したのは「人が死んだらどこへ行くのかという問題と、人はどこから来るのかという問題は不可分である」という命題である。人が死んだらどこへ行くのかという問題に今のところ明確な答えは設けられていない一方で、人はどこから来るのかという問題は性行為という言葉で簡単に片づけられてしまう。コウノトリが運んでくるなんて言った日にはひそひそと笑われてしまう。そのうえ人が生まれるというプロセスには、人間が介入しまくっている。試験管ベイビーや不妊治療、出産前検査などは最たる例である。

が、本来人がどこから来るのかという問題は、人は死後どこへ行くのかという問題と同様に語られるべきであり、神秘的な問題であるはずなのだ。死後の世界が神秘性を持つのと同様に、生前の世界も等しく神秘性を持つはずだ。なのに、私たちは人が人を生むということをコントロールするのに躍起になる。

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「生まれてくる子が障碍者だからって生むのをやめるのは間違ってる。」……わかる。

「でも障碍者のために自らの血税が使われ、障碍者のために気を使って生きていくのはまっぴらだ。そもそも産むか産まないかの判断をできるのは妊娠ができたからだろうが。妊娠できない私の身にもなれ。堕ろせ。」……心無い主張だが、理解はできる。

この位相の中で、「産んでやる」と決意した女性に、作者の出産への、子供を産むということへの強い肯定を感じられた。

 

舞台は八角形で全面が鉄格子でおおわれており、鳥かごを連想させる。

前述の引用のほかにも、会話の解体、ハンドクラップ、三人羽織りなど、随所に演劇的仕掛けが用いられていて、演劇っていいなあと素直に感じさせられる時間であった。

 

ここまで書いて、朝7時前である。いつかこんなお芝居をしてみたい。