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演劇と珈琲、本と酒。

演劇とか珈琲とか本とか酒とかについて綴られるはず。

【エッセイ】演劇と映画のエッセンス

所属している映画ゼミで書いた論文。

後で読み返してみるとひどい出来なのだが、前半は割とまとまってるので、自分のブログで公開します。(ゼミHPには案の定掲載されず……笑)

バザンの演劇と映画論を基に、ピーターブルックの演劇論を解釈しようと試みたけれど詳細な分析ができず、コテンパンにされる。いつかもっとちゃんと取り組んで書きたい。

 

演劇と映画のエッセンス

 アンドレ・バザン『映画とは何か』(1975)をもとに、“Peter Brook: The Tightrope” (2012)を見る。

 

1     はじめに

1.1    問題設定

演劇は映画にとって代わられるだろうか? 映画が誕生してから幾度となく繰り返されてきた問いである。実際のところ、この問いに対して明確な答えはいまだなされておらず、現在でも様々な演劇学者、映画学者が論争を重ねており、映画と演劇をめぐる人たちの中で主要な関心ごとであり続けている。なぜだろうか? それはすなわち、演劇と映画が非常に似通っているように見えるからだろう。初期の映画は、演劇を模倣しながらその芸術性を発展させていった。演劇が人間の有史以来脈々と続けてきた伝統と実践を、映画はそっくりそのまま自身に当てはめたのである。しかしそれはもはや遠い過去の話であり、現在では、映画は興行的には演劇をはるかに追い越してしまった。映画は演劇の地位をもはや亡き者にしようとしているかのようにさえ見えるのである。それゆえ、人々はこぞって「演劇はもはや古びた芸術である」という判を押したがる。事実、映画は時間と空間を融合させた「第七の芸術」としての役割を存分に果たし、一方で演劇を観る人の数は減るばかりであるということは否定できない。

 しかし、そもそもこの論争において、演劇と映画はどのような性質を持ったものとして語られているのだろうか? そして、両者を同一とみなす、または両者を隔てるものは一体何なのだろうか? 私はこの問いをこのエッセイの主題として据えたい。すなわち、「演劇と映画の交わる範囲を確定し、そのうえで演劇的なるもの、映画的なるものを今一度抽出してみよう」という試みである。確かに、両者はとても似ている。しかし、似ているということを認めたうえで、その間にはどうみても明らかに根本的な違いが存在する。その違いを認識し、また意識的になることは、映画が演劇にとって代わるかを論じる際に必要不可欠であるだろう。

1.2    構成

 まず、映画と演劇の比較検討にはアンドレ・バザン『映画とは何か』の中の第十稿「演劇と映画」を頼りに、演劇と映画を四つの要素に分解する。すなわちそれは第一にドラマとせりふの問題。第二に俳優と存在の問題。第三に観客の問題。そして第四に舞台と背景の問題である。バザンが行った、「演劇を映画にすること」及び「撮影された演劇」に関する分析の試みは、映画と演劇を分かつもの、また同一と感じさせるものとは何かという問いをダイレクトに内包している。

 次に、以上で確かめた四つの要素が、サイモン・ブルック監督の『Peter Brook: The Tightrope』にどのように表れているかを分析する。この映画は現代演劇の巨匠ピーター・ブルックの二週間にわたるワークショップを6台のカメラで記録したドキュメンタリーであり、バザンの言う「撮影された演劇」をまさに実現しているといえる。この映画を分析することによって、「映画演劇」の成功例、すなわち映画と演劇が真にひっ迫している点を見るという試みである。それはバザンの論理を確かめるという点で有用であるとともに、そこから敷衍して、映画を映画足らしめるものと演劇を演劇足らしめるものについての考察を生むだろう。

 最後に、以上の議論をまとめたうえで、依然として映画と演劇を分かつもの、すなわち、映画が持つ映画的なもの、および演劇が持つ演劇的なものを整理したい。そして、両者の関係をできるだけ明らかにしたうえで、映画と演劇の未来像を模索してゆく。

2     映画と演劇を比較分析する際の、四つの視座

 アンドレ・バザンが「演劇と映画」の中で試みている議論は、簡潔に言えば「演劇を映画化する際に表れる、演劇の演劇性をどのように乗り越えるか」である。バザンは議論の中で映画と演劇の比較検討を幅広く行っているのだが、それをここでは四つに絞って検討したい。その四つとは先にも挙げたが、①ドラマとせりふ ②俳優と存在 ③観客 ④舞台と背景 である。以下では、この四つの観点においてバザンがいかなる意見を提示しているか確認し、そして、第三章では現代的な文脈においてはそれらがどのような意味を持つのかをみる。

2.1    ドラマとせりふについて

 まず、前提として確認したいのがドラマという言葉の意味である。ここで使用するドラマの意味は「筋のある物語」をさしている。それは悲劇であろうが喜劇であろうが関係なく、どちらの文脈においても存在しうるものである。バザンもおそらくこの意味で使用しているだろうという前提で論を進める。

 バザンは、演劇におけるドラマに対しては、「ドラマは演劇の魂ではある」としながらも、「その魂はほかの表現形式にも宿ることがある」とし、演劇がドラマによって自律しているという主張を否定している。すなわち、戯曲にはドラマがないと成立しないが、そのドラマなるものはほかの表現形式に容易に宿るため、それが演劇を演劇足らしめているわけではない、ということである。また、それに付随してバザンは「演劇が本当に存在し始めるのは、戯曲が具体化された時であり、それも役者の肉体においてではなく、せりふのうちに具体化された時なのである」と、演劇におけるせりふの重要性を主張している。つまり、演劇を演劇足らしめているのはドラマでも、俳優の肉体の存在でもなく、「演劇」のせりふなのだ。ここであえて鍵かっこを使用したのは、せりふには演劇のせりふに限らず、映画のせりふもあり、せりふがそれぞれの表現の在り方、描写のスタイルを決定するからである。

 演劇のせりふは演劇のせりふとしてしか通用しない。この主張の理由として、バザンは演劇作品の小説化が全く無いことを挙げている。すなわち、小説の演劇化は容易になされるが、演劇の小説化はせいぜい筋やキャラクターを借りただけの別物になることが多く、その点で全く新たな創作活動なのである。これは映画においても同様に認めることができ、映画の中で語られる演劇のせりふは実にちぐはぐなものとなる。バザンは失敗例としてモリエール原作の映画『いやいやながら医者にされ』を挙げている。彼に言わせればそれは演劇を無理やり映画にしようとしたために、モリエールが想定したような舞台の約束の上では成立したものが、スクリーンにおいては見るに堪えないものに成り下がってしまったというわけである。また、演劇はせりふによってそのドラマを成立させるのに対し、映画は背景にもそのドラマをはらんでいる。演劇のドラマがそれゆえに俳優の内面とその発露としてのせりふに依拠しているのに対し、映画は背景そのものがドラマを持つため、演劇のせりふを映画でそのまま吐くことは、やはりちぐはぐな結果になってしまうのである。

 バザンは数少ない成功例としてジャン・コクトー作『恐るべき親たち』とローレンス・オリヴィエ作『ヘンリィ5世』を挙げている。これら二つの作品は「演劇映画」の中でも演劇と映画の違いに自覚的になりながら成功した例として後々でも話題に上がるのだが、ことせりふに関しては成功の要因に関して明快な答えが用意されている。すなわちそれは、「演劇の戯曲を映画のせりふとしてではなく、そのまま演劇のせりふとして映画の中でつかうこと」である。つまり、逆説的ではあるが、映画の中で演劇の台詞が生き生きとするためには、それが用いられている文脈、すなわち演劇の文脈に従うことが大切ということである。まさしく、「せりふは最初から潜在的に演劇なのだ」。ここで注釈を加えておくと、演劇のせりふというものは現実からは離れる方向性が意図されており、それはアレクサンドランやシェイクスピア戯曲の弱強五歩格などに例を見ることができるだろう。

 対して映画におけるせりふはどうか。バザンはそれについて「自然な作劇法」と言及している。すなわち、舞台の作劇法が現実との差異化に依拠しているのに対し、映画の作劇法はあくまでも現実にその軸を置いているのである。

 以上において行われているバザンの議論を曲がりなりにも表にまとめると、以下のようになるだろう。

 

演劇

映画

ドラマ

俳優から生じる

背景から生じ、人物に進む

せりふ

現実との差異化に依拠する

現実に依拠する

 

 

2.2    俳優と存在について

 俳優の存在、それも生身の存在こそが演劇を演劇足らしめている要素であるという主張は、演劇の映画に対する優位性を主張する際によく論じられるものである。その点は確かに否定できない。すべてに先んじて、俳優が目の前で観客と対峙しているということ。これが演劇の最も演劇足る点ではないのか。しかし、バザンはこの主張に対して、映画においてもその俳優の存在感をスクリーンの上で感じさせうるとしている。

 「存在」の意味と「対峙」の定義に関して、バザンが行ったものをそのまま引用する。

存在とは当然ながら、時間及び空間との関係で定義されるものである。だれかと「対峙している」というのは、その人物と時間を共有していることを自覚し、私たちの感覚(映像なら視覚、ラジオなら聴覚)が自然と及ぶ範囲にその人物がいると認めることである。

これを演劇的な文脈に当てはめるのであれば、私たちの感覚が自然と及ぶ範囲がごく近くに設定される。俳優と観客は同じ場、同じ時を共有する。観客は俳優と同じ時空を生きる特権を手にしている。この定義においては、テレビの生放送などもその対峙の範疇に含まれる。なぜなら、テレビが映している映像は時間と空間において自分と時を一にしていると、容易に納得できるからである。

映画においてはどうか。映画における対峙は限定的に行われる。なぜならば、映画においての対峙は、演劇のそれよりも遅れてやってくるからだ。すなわち、スクリーンに映る俳優の姿は今まさにそこにいるのではなく、過去のある時点で存在した姿であり、いまそこにいるものではない。この点で、対峙という概念における、時間の要素においては、映画は演劇に後れを取るだろう。だが、空間においては、演劇の対峙よりもはるかに豊かに行われうる。それはつまり、カットとズームの手法によって俳優に接近し、いま手に取るように、(舞台上でそれを観察する以上に)俳優との対峙を明確にできるということである。この二点、時間と空間においての二点を踏まえ、バザンは映画を、存在と不在の中間に位置するとしながらも、演劇に対する空間の優越性によって、時間における劣勢を埋め、なおかつ超越していると述べている。したがって、演劇と映画においては、俳優の存在と、俳優と観客の対峙はどちらも行われうるものであり、それの有無によって二つを分けることはできないのである。

これは驚くべきことであり、にわかには信じがたいかもしれない。が、この論理はのちに見る映画の中で、シェイクスピアの戯曲「テンペスト」を演じる二人の俳優によって鮮やかに立証されている。

しかし、それでもやはりというべきか、俳優が目の前にいることの根本的なエネルギーの強さはかけがえのないものとして存在するのは否定できない。それに対して現前性などという名前をつける演出家もある。これについてはバザンも同意するところであり、俳優の存在に対して、その映画における価値を否定しないまでも、演劇における優位性を認めている。

2.3    観客について

 上で行った俳優と存在についての議論は、同様に映画と演劇における観客の態度の違いによってますます鮮やかになる。つまり、俳優の存在と、俳優と観客の対峙においては、それを作り手がどう提示するかという点のみならず、受容する観客の態度の如何によって、全く異なって認識されるのだ。

 バザンは、演劇を観た後に訪れる感覚と、映画のそれを比較して、以下のように述べる。

演劇と映画がもたらす楽しみ、その楽しみの中にある知的というよりは直接的な部分とは何かを、自分の胸に率直に尋ねてみよう。すると、幕が下りた後舞台が私たちに残す喜びには、いい映画を見た後で得られる満足感よりも、もっと私たちを鼓舞するような、そしてはっきり言ってしまえばより高尚な――あるいは、より道徳的なというべきかもしれない――何かがあることを認めざるを得なくなる。

 なぜ、映画を見た後には幻滅するのか。バザンはその根本に、観客の脱人格化という過程を指摘している。つまり、演劇を観る観客と映画を見る観客は根本的に異なっており、映画における観客は、スクリーンの前では「大衆」と化し、人格を失っていると主張するのである。なぜならば、映画では登場人物たちはカメラの視点を通して容易に同一化の対象となり、それによって観客の感情に画一化がもたらされるからである。

一方で演劇の場合には、観客は能動的に観劇することになる。なぜならば、客観的に存在する舞台上の登場人物たちとの対峙によって、観客は彼らを劇の中に据えるためには想像による抽象化が不可欠だからである。この抽象化がもたらすものこそ、上の引用に見られるような「鼓舞するような」感覚や、「高尚な何か」であるだろう。バザンの言葉を用いてまとめると、「映画が観客に受け身の参加を求めるだけであるのに対し、演劇は一人一人の積極的な意識を必要とする」のである。

ただし、このような特質は映画や演劇に関する一般論であることを忘れてはならない。映画の中には観客の能動を必要とするものが多くある。後述するドキュメンタリー映画などは、劇映画と異なり、終始観客の能動を促す。一方で、演劇の中にも観客への同化を促す演出手段もある。スタニスラフスキーがそのシステムを用いて目指した演劇、あるいはアクターズスタディオの生徒たちがメソッドによって実践した演技は、まさしく観客の同化を促すものである。ここで、異化を狙ったブレヒト的演出がまさしく演劇的だとは安直には言えないことを注意しなくてはならないだろう。

では、演劇と映画を観客という視座から分かつものは何か? それは観客と舞台との間、観客とスクリーンとの間にこそある。

演劇においては、観客と舞台の間にはいかんとも越えがたい壁がある。これは、ピーター・ブルックが著作の『何もない空間』において述べたように、観る、観られるという関係である。以下にあまりにも有名な冒頭を引用する。

どこでもいい、なにもない空間――それをさして、私は裸の舞台と呼ぼう。一人の人間がこの何もない空間を歩いて横切る、もう一人の人間がそれを見つめる――演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ。

ブルックがここで示しているのは、まぎれもなく、演劇が成立する最低条件である。すなわちそれは、一つの俳優と観客の関係、みることとみられることである。この両者はもしかすると逆転が生じうるかもしれない。が、どちらもが見る、あるいは、どちらもが見られるという関係には決してならない。この点が演劇における俳優と観客の関係の顕著な点である。これが演劇におけるシンプルにして一番重要な、約束なのだ。バザンはこの約束をフットライトという比喩を用いて説明する。引用しよう。

演劇とは観客と俳優が互いに存在している――ただし、演技をしているという前提で――という意識のもとに作り上げられる。私たち観客がフットライトを飛び越えて、あるいは的その検閲に守られて、遊技的にストーリーに参加していくことで、演劇は私たちに働きかけてくる。

 一方で映画において、スクリーンの中の俳優は観客に対して見られていると意識することはないだろう。もちろん、ここで問題としているのは撮影の瞬間ではなく、上映の瞬間である。観客は俳優の生きるさまを、カメラを通して覗き見るのである。この点において、映画は決定的に演劇と異なるといえる。またしても、バザンの言葉を引用したいと思う。

映画では、真っ暗な部屋に隠れた私たちは、ブラインドの隙間越しに、私たちのことなど関知しない、世界の一部であるような光景を見つめるのである。そのとき、私たちが目前に展開される世界に創造の上で一体化するのを妨げるものは何もない。それは「世界」そのものとなるのだ。

 

 

2.4    舞台と背景について

 演劇と映画に関する視座において、最後の四つ目は舞台と背景についてである。いささか前の三つとも同じ論点を含むことになりうるが、舞台と背景こそ、演劇と映画を分かつ最大の要因といえる。すなわちそれは、ドラマが行われる場についての議論を伴う。

 演劇における舞台の役割とは何か。それは、演劇的な約束を明確にすることである。先ほどの観客についての議論でも引き合いに出したが、フットライトというものは、演劇を演劇だと思わせるための代表的な手段である。これにより、俳優と観客との間に一線が引かれ、俳優と観客はそれぞれの領域に納まる。翻って舞台上における舞台装置は、この俳優―観客間の隔たりを一層明確にするものである。そこはまさしく、自然とは異なった特権的な空間を形成するために存在する。そのため、閉じられた空間となるのが常である。観客は舞台上に、各々の想像によってその「背景」を埋めるのである。バザンは、演劇におけるこのような舞台の役割をさし、次のように述べる。

(前略)アクションが繰り広げられる舞台および舞台装置は、世界に無理やりはめ込まれた、しかし周りを取り囲む「自然」とは本質的に異質な、美学的小宇宙なのである。

美学的小宇宙という言葉がさすように、舞台空間はドラマの空間を、俳優とともに形成するのである。

 それに対して映画においては、本質的に場の概念が異なっている。映画においてドラマが生まれるのは「自然」のなかにおいてであり、それを映すスクリーンは出来事の一部しか捉えない。演劇の舞台が絵画における額縁のように背景と中身を隔てているのに対し、映画のスクリーンは背景を自らの一部として取り込み、提示するのである。

 前の論点の繰り返しになるが、舞台と背景に関するこれらの違いは、俳優の演技やそのドラマに直接的な影響を及ぼす。すなわち、演劇において俳優が立つ舞台は本質的に観客から見られることを想定しており、観客から受け取る視線によって俳優は自らの中にドラマを生じさせることができる。これこそが演劇におけるドラマの出発である。対して映画では、ドラマは背景から生じ、人物へと進む。すなわち俳優の中にドラマが生じている必要はないのだ。決定的なことは、俳優がカメラの画角から外れたとしても、映画は成立することなのである。したがって、演劇映画において監督が苦心しなければならないのは、舞台によって切り取られた世界をいかに自然のもとに背景として立ち昇らせるか、である。

2.5    まとめ

 以上、バザンが設置した論点が私たちに再び思い起こさせるのは、映画と演劇の間に存在するまぎれもない差異である。すなわち、①ドラマとせりふ ②俳優と存在 ③観客 ④舞台と背景 の四点において、演劇と映画は一見似ているように見えながら、そこには歴然とした違いがある。しかし、すぐれた演劇映画はこの違いに対して自覚的になることによって、演劇の持つ感覚を映画に映してゆくことに成功している。バザンは例としてジャン・コクトーの『恐るべき親たち』とローレンス・オリヴィエの『ヘンリィ5世』を挙げているが、私はここに“Peter Brook: The Tightrope”を追加したい。上の二つとは性質が異なることは確かだが、そこで実践されている映画と演劇を超克する試みは、まさしくバザンが指摘しているものを援用することによって、論じることができる。

以下では、この映画を見ることによって、その演劇と映画がその領分を共有している部分を確認し、さらにそこから浮き出てくる、さらなる演劇らしさ、映画らしさの抽出を試みてゆきたい。

3     “Peter Brook: The Tightrope” を分析する

3.1    この映画の持つ特性――ドキュメンタリーという構造

 以下で論じてゆく際の前提として、まずこの映画が持つ特殊性を整理したいと思う。

 先にも述べたが、この映画は演劇の、しかも稽古を記録したドキュメンタリーであるという点でほかの演劇映画とは毛色が異なる。すなわち、肝心な点は、この映画が劇のテキストに従った劇映画ではなく、演技の記録に基づいたものであるということだ。つまり、構造的に演劇と映画の接点を示しやすいのである。そこに映し出されている俳優の演技は、ドキュメンタリーという記録の方法を用いて、いっさいの虚飾をはぎ取られる。それにより、まさしく画面の中と前とで対峙しているかのような感覚になるのだ。

 この、「演劇と映画の合体をドキュメンタリーという手法をもって容易にしている」、という前提を踏まえたうえで、映画の中に演劇を映してゆく手段を分析してゆく。

3.2    映画における「ドラマとせりふ」について。

 このドキュメンタリーを貫く大きなドラマは、出演する俳優たちがピーター・ブルックの演劇哲学を自分の身体に昇華していく様にある。せりふはテキストが用意されているわけではなく、ピーター・ブルックと俳優たちの相互作用によって言葉が紡がれてゆく。この点において、この映画はまさしく映画的である。作劇の方法としては「自然」に寄っているといえるだろう。

 しかし、下位概念として、この映画は小さなドラマをいくつもはらんでいる。それはすなわち、劇中で「稽古」として繰り返されるシェイクスピアの戯曲や、「魔笛」などのオペラが持つドラマである。これらが持つ演劇性は、損なわれることが決してない。すなわち、これらを「稽古」として映画の中で演劇的に実践することによって、保たれているのである。

 例を挙げよう。チャプター5において、俳優たちとブルックはシェイクスピアテンペスト』の稽古を開始する。男性の俳優と女性の俳優は用意された筋書き――プロスペローが起こしている嵐を娘のミランダが止めようと懇願する――を演じる。それに対してブルックがコメントしてゆく。一つ一つ、劇のテキストを演じている、つまり台詞を言っている瞬間は、まさにそれは演劇的な体験とイコールである。観客はこの一連の中にシェイクスピアの物語を感じることができるのである。しかし、ブルックがコメントを始めると、その物語は終わり、ドキュメンタリーの場に戻る。このように、映画が持つドラマの中に演劇が持つドラマを入れ子構造的に仕組むことにより、観客は一種の倒錯のような感覚を憶える。しかしそれは同時に、未だかつて味わったことの無いような不思議な快感として去来するだろう。つまり、観客は映画であると自覚しながら演劇を観ていることになるのだ。

 ここに、この映画の持つ、まさしく不気味といっていいほどの仕掛けがある。すなわち、ドラマとせりふという観点においては、あえて映画と演劇の差異を明確にすることによって、映画の中に演劇らしさを生むことに成功しているのである。

3.3    映画における「俳優と存在」に関して

 もちろんのことだが、映画の中の俳優は画面のこちら側を意識してはいない。しかし、演劇に勝るリアリティを私たちはこの映画の中に確かに見ることができる。それは、前述した『テンペスト』が実を結ぶ場面において顕著だ。

 先にも述べたとおり、映画における対峙は、演劇における対峙よりも、時間的には劣勢である。なぜなら、映像に記録された俳優の生きるさまは私たちに遅れて提示されるからだ。しかし一方で空間的な対峙においては、わたしたちは映画においてのほうが、演劇におけるそれよりも鮮やかに、豊かに対峙する。それが可能となるのはズームやカット割りによって空間的に近い距離で彼らを見ることができるからである。

 件の『テンペスト』の場面では、一貫してカメラはブルックと男女の俳優の三人を絵の中に収めている。これによって、観客は無意識のうちに、これが「稽古」であるということを意識させられる。しかし、この後、演技が一層盛り上がりを見せる場合においては、どうなるか――。カメラは、ブルックをその画面の外に追いやるのである。そして、俳優二人の演技をズームアップで捉える。この瞬間、まさしく演劇的な対峙が観客と俳優の間で行われる。すなわち、一気にその空間が密になるのである。その臨場感はきっと、客席にいるよりもずっと大きなエネルギーをもって、画面の前にいる人々に提示されているのだろう。そこで観客は、演劇において感じられるような俳優の存在をまざまざと「見せつけられる」のである。

 素晴らしいのは、それが体験できるのがこのシーンにとどまらないということだ。映画の中のいたるところで、俳優たちが行う演技に、私たちは対峙することができる。それを可能にしているのはひとえにカットとズームがもたらす映画的な仕組みなのである。

 

 

3.4    映画における「観客」について

 ドキュメンタリーという形式は、そもそも見るものの能動を必要とする形式であるといえる。そこで行われている事象に対して自ら意識的に意味を付与していく作業を通さなければ、全体の理解を図ることは難しい。この点でドキュメンタリー映画は演劇と非常に多い部分を共有しているといえる。なぜならば、ドキュメンタリーが要求する事象に対する意味の付与は、演劇が観客に要求する、俳優を抽象化する作用と似ているからだ。このような、観客が常に意識的にならざるを得ない、という構造が、この映画を演劇的にしている。この映画を見ている観客は、演劇を観ている時の観客と、非常に近い状態にあるのである。

 具体的に見てゆこう。映画の中で再三説明されるブルックの演劇理論は、それ自体が大変に抽象的で理解が難しい概念である。わたしたちはそれを、俳優が実践する「綱渡り」によって、ようやく理解することが可能になる。この、抽象的な概念が具体化する手続きが、映画を通して何度も繰り返されるのだ。

 この点において、バザンの理論に従うことができるだろう。ドキュメンタリーという形式において撮られた映画において、観客は人物との同一化を必ずしも進めるものではなく、むしろ人物との同一化を拒む方向に意識が働くのである。演出(監督)の裁量次第でいかようにも操作できるこの意識の論拠を、ここに見ることができる。

 演劇の約束に関してはどうか。実は、この点に関してもこの映画は非常に厳密に守っている。稽古の様子を覗き見る私たちと、実際に演じている俳優たちの間には、観衆役として他の俳優たちが画面に映る。私たちはこの観衆役を通して、彼らが演劇を行っているのだと了解する。そこにちぐはぐさは生まれずに済むのである。

 

3.5    映画における、「舞台と背景」について

 この映画の大半のシーンは、セットのような空間で行われる。写真を引用したい。

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(HPより引用)

 上の写真を見てわかるように、この空間はおそらく、映画のために作られたセットである。それは天井につるされている多くの照明が示している。この写真をみると、稽古が行われている空間は実際に存在するものではなく、あらかじめ用意されたもの、すなわち舞台装置と同義であることが確認されるだろう。演劇を映画にするためには、このようなセットは欠かせないものである。先に述べたように、演劇を映画にする際に監督が苦心せねばならない問題は、この舞台で囲まれた特権的な空間を、いかに自然な背景として観客に了解させるかということである。この映画では、上図において明らかな数々の照明灯体を、決して画面内にとらえない。こうすることによって、演劇的な「舞台」の概念は、カットやズームなどの技術によって、映画的な「背景」に変わることができるのである。

3.6    まとめ

 以上みてきたように、この映画はバザンが挙げた映画と演劇の違いに対して意識的になり、それを効果的に乗り越える、あるいはあえて明示する事によって、良い演劇映画になっているといえるだろう。繰り返すならば、演劇を映画にするときに大切なのは、それを映画として換言する事ではなく、あくまでも演劇として、演劇に忠実になりながら映画にすることである。以上みてきた四つの点――ドラマとせりふ、俳優と存在、観客、そして舞台と背景――は映画と演劇においての違いが明確に表れるところではあるが、これらの違いを明示的にスクリーンに移すことによって、映された演劇は、演劇としてのエネルギーを観客に届けることが可能なのだ。

 バザンは演劇を映画にする際に心得るべきことを次のように述べる。

ようやく垣間見えてきた真の解答とは、演劇作品のドラマ的要素――これはある芸術からほかの芸術に交換可能――をスクリーンに移し替えるのではなく、逆に、ドラマの演劇性を移し替えるべきなのだと理解することにあった。

 

 

4     映画と演劇の関係性

 この映画の分析は、さらに議論を呼ぶ。その論点は「演劇を映した映画が、演劇のクオリティを保つならば、演劇は映画にとってかわられることを証明しているのではないか?」というものである。

 バザンは「演劇と映画」の論稿の最後に、「教訓」として、映画と演劇の違いは、これら二つの個々の芸術性に対してどのような影響をもたらすかという点を三つ挙げている。すなわちそれは「映画を助ける演劇」、「演劇を救う映画」、そして「撮影された演劇から映画的な演劇へ」という三点である。

 一点目の「映画を助ける演劇」という点は、これまで見てきた通り明らかである。映画は「撮影された演劇」の成功によって、自らに演劇的要素を取り込み、より芸術として発展してゆく、ということである。『恐るべき親たち』『ヘンリィ5世』そして、”Peter Brook: The Tightrope” に見て明らかなように、映画は演劇的なクオリティを映画として表現することが可能になった。

 二点目の「演劇を救う映画」とはどのような点だろうか。バザンはすぐれた演劇映画における「戯曲」が演劇の観客を増やしうることを指摘している。すなわち、『ヘンリィ5世』の成功はシェイクスピアの戯曲の良さを観客に知らしめ、それによりシェイクスピア戯曲の上演の観客を増やすであろう、という指摘である。あながち、このような例は現代の日本においても見ることができる。NHKが放送する演劇作品によって、私たちは劇団公演を観に行こうと思うはずである。つまり、演劇の映像化は演劇の宣伝に一役買うのである。

 また、同時に演劇と映画の関係性について、バザンは写真の登場における絵画のふるまいを用いて、その未来を予測している。すなわち、絵画は写真にとってかわられることは決してなく、むしろ写真の登場によって絵画が持っていた価値をあげる結果につながった。画家たちは写真の特性を十分に理解することによって、真に絵画的な要素を見出すことに成功したのである。演劇も、映画の登場によって自らの特性を真に理解し、また発展させてゆくことが可能である。

 そして三点目の「撮影された演劇から映画的な演劇へ」という点であるが、これはバザンの未来予想である。すなわち、演劇が映画に与えた恩恵を返す形で、映画は演劇に利点をもたらしうるのである。映画的な演劇という例において、バザンはジャック・コポーを挙げている。ジャック・コポーは岸田國士がフランスに留学していた際の師であり、その映画的な演劇という作劇法は、岸田國士を通じて日本に輸入されていてもおかしくない。現に、日本における現代演劇理論として、平田オリザの提唱した「現代口語演劇理論」があるが、これはまさしく「映画的な」演劇理論だといえるだろう。すなわち、現代の演劇の諸相は、「映画的な演劇」という約40年前にバザンが挙げた作劇法の只中に位置しているのだ。

5     おわりにかえて、仮説

 以上の論理を踏まえると、バザンの提唱した理論は決して古さを帯びず、未だ現代の演劇と映画の状況に適用できる可能性があることがわかった。また、あえてここで蛇足的な付与を施すのであれば、バザンが生きていた時代の演劇と比べ、現代の演劇はより「映画的」な要素を自らに取り込み、膨らませてきたといえるだろう。それは演劇の発展において大変良いことである。

しかし、先の教訓の第二の点にあるように、自らに特有の特徴を内省的に知ることにおいてはどうだろうか。それは、言うなれば演劇的な「異化」の過程をブレヒト以来深めてきたミュージカルなどに見ることができるかもしれないが、理論的な構築は行われていない。

現在の演劇界をむりやり二極に分けるのであれば、それはすなわち、より「映画的な」演劇と「演劇的な」演劇の二つに分けられるだろう。「映画的な」演劇が映画からもたらされた同化のプロセスを自らに含ませるのに対し、「演劇的」な演劇は観客と舞台の間にフットライトを置くことをいとわない。さらに言うならば、バザンは言及していないが、演劇における先行きの不透明さ、すなわち即興性というものが、より演劇を演劇足らしめるものなのだと私は考える。それらの分析については1910年代のダダイズムが持っていた無意識性、およびそれに連なるシュルレアリスムを用いることになるだろうが、演劇は今後このような性質を帯びていく可能性があることを私は予期したいと思う。意図を突き詰めて言った末の、意図ならざる領域こそ、真に演劇的と呼べる領域なのではないだろうか。

 

6     参考文献

アンドレ・バザン(1975)『映画とは何か 上』  (野崎歓、大原宣久、谷本道昭訳) 岩波書店.

ピーター・ブルック(1968)『なにもない空間』 (高橋康也、喜志哲雄訳) 晶文選書.

・サイモンブルック監督 (2012) DVD 『Peter Brook: The Tightrope』