演劇と珈琲、本と酒。

演劇とか珈琲とか本とか酒とかについて綴られるはず。

NY 観劇録① STOMP

ニューヨークに来て初めての観劇は、オフ・ブロードウェイの"STOMP"

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セリフは一切なし。パーカッションと光によるパフォーマンスで、英語がわからなくても存分に楽しめる。なんかよくわからない割引のおかげで$49.50

これが、めちゃめちゃ楽しかった。

 

観劇の感想で「楽しかった」というのも雑極まりないが、面白いやつまらないではなく、楽しかったとしか言いようが無い。それほどまでに、STOMPは観客と一体となって「体験」を提供する、とことん能動的なパフォーマンスだった。

 

決まったストーリーがあるわけではなく、舞台上のパフォーマーたちがありとあらゆるものを楽器にみたてて鳴らしてゆく。ある時は新聞。ある時はデッキブラシ。そしてある時は手や足。とにかく、身の回りの、ありふれたものを用いてリズムを作っていこうというのがコンセプトらしい。

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なかでも、ジッポライターを使ったパフォーマンスがとても印象深かった。照明はすべて落とされ、暗闇の中ジッポライターの開閉の音が響く。同時に、揺らめく炎が明滅する。無秩序に明滅を繰り返していた炎たちは、開閉の音がリズムを生み出すと同時に秩序が生まれ、音に合わせて光りだす。人間の生み出すリズムに従って明滅する光を見ていると、まるで夜景を見ているような感覚になった。

 

思ったことがたくさんある。

ひとつは、聞こえてくるものと見えるものの親和性が非常に高いということ。

演出をやっているときに役者に対して感じることの一つに、身体と声の不釣り合いがある。たとえば、声は怒っているように聞こえるのに、身体は怒ってないとか。逆に、身体はすごい緊張しているのに、声はそうでもないとか。技術として、意識してそうしているのでなければ、多くの場合それは表現するべき感情に身体や声が追いついていないことが原因であることが多い。

今回のSTOMPでは、パフォーマーたちは一切言葉を発しない。が、その代わりに自らの身体を用いて音楽を奏でる。その様を見ていると「身体が歌っている」としか言いようの無い「見え方」をしている。まさに全身からエネルギーがあふれているのだ。すごい。そのため、何も聞こえていない状態さえも、音楽として成立している。

全体を通して観たときに印象に残るのは聞こえてくる音だけじゃない。見えてくるパフォーマーの身体の躍動、照明効果もまた、強く印象に残る。舞台上に立つものは自分の身体を楽器のように扱うべきだと多くの本に書いてあるけれど、まさしく彼らの身体は「楽器」そのものだった。

演劇、なかでもストレートプレイは声を用いてストーリーを立ち上げていかなきゃならない。劇作においては聞こえてくるものと見えるもの、台詞とト書きを分けて考えてしまいがちだが、一緒にしなければ意味が無い。

 

もう一つは、観客との一体感。

初めて生のスタンディングオベーションを体験した。客席も含めて舞台。アメリカの観客はめちゃくちゃノリがいい。舞台上で行われていることに主体的に、積極的にかかわろうとしてゆく姿勢がすごい。リアクションも多様だ。拍手だけじゃなく、掛け声も、笑いも指笛も、その全部がパフォーマーに影響を与えている。彼らが客席をあおり、観客もそれにこたえる。フットライトなど存在しない。ただの「対峙」がそこにはあった。

こういう観劇体験を日本に持ち込みたいと思うのだけれど、どうすればいいのか見当がつかない。国民性が違うと言ってしまえばそれまでなのだが、以前観たKOKAMI@netoworkの『サバイバーズ・ギルト&シェイム』ではそれを感じることができたから、できないわけはないはずだ。寺山修二や唐十郎もそうやってたはずなのに、いつから日本の演劇はプロセニアムアーチの時代に戻ってしまったんだ?そもそも観客の問題か、制作サイドの問題か、演出の内容によるのか。わからん。

 

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今日はスッキリ晴れたからか、通りに人が多かった気がする。

早く時差ボケから脱したい。