「傷つきやすさ」について
こっちでシーンの稽古の授業をとっていて、その中で教わったエクササイズの一つに、“7 Seconds Are Nothing” というのがある。(題名は勝手につけた)
与えられたお題のもとに行うスピーチみたいなものだ。
まず、ひとりが全員の前に立って、”7 Seconds Are Nothing” の声のもと、7秒間静止する。その間は、何もしてはいけない。言葉を発してはならないし、動いてもダメだ。ただ7秒間静止するだけの、静寂の時間。
7秒後、”Moment” と合図されたら、自分の固有体験の中で印象に残っている瞬間を切り取って、話す。この時話す内容についてはある程度のテーマが与えられて、「喜び」「怪我」「超自然現象」など、エクササイズを行うたびに変わる。スピーカーはその瞬間の出来事に対して心を接近させて話さなければならない。
そして最後に、”Song” と合図される。この時は、その言葉通り好きな歌をうたう。歌は何でもよくて、もし思いつかなかったら、ハッピーバースデーでも良い。
以上が、“7 Seconds Are Nothing” の内容だ。
自分がやった感想としては、もちろん言語の問題があるにせよ、普通にスピーチをするより難しく感じた。特に違う点といえば、やはり7秒間の静止の時間だ。
何かを話したり、歌を歌ったりするエクササイズは、形を変えて名前を変えて、日本でもたくさんの劇団で行われていると思う。要点も大体同じようなもので、「人の前で物を語れるか」という点、つまり自分でストーリーを進めるということに重きを置くというのは、多くの人が同意するだろう。
だけど、このエクササイズみたいに、「何もしない」、あるいは「ただ黙ること」が要求されるというのは、自分が知る限り、無い。初めての経験だった。
なぜ何もしない時間が必要なんだ?
教わった演出家にきいてみたところ、それは、あなたが”Vulnerable” な状態を感じるためだ、といわれた。その場ではなるほどと答えたけれど、いまいちピンとはこなかった。ただ、何回か繰り返しこのエクササイズをするうちに、徐々に気づき始めたことがある。
手元の英和辞書を引くと、“Vulnerable”は、「〈人・体などが〉傷つき(冒され)やすい」と訳されている。一見すると、俳優の問題とは関係がないようにみえるけれども、この「傷つきやすい」状態こそが、理想的な俳優の状態なんじゃないかと思う。
「7秒間は何もしてはならない。」
これは、人の前に立つものにとって一番苦しい要求の一つだ。多くの人は、人前に立つと緊張して常に何かをし続けようとしてしまう。間が持たないとはよく言ったもので、特にスピーチなど人前で何かすることを求められれば、静寂に耐えかねて、何かしないといけないような気持ちになる。その結果、余計に恥をかいてしまう。
間が持たないときの静寂は怖いし、観衆の視線は刺さるように痛い。
このエクササイズは、そのような苦しい状態を意図的に作ろうとしている。
スピーカーは何もしてはならない。だが、そこに存在していなければならない。
静寂に耐えながら、視線を一手に引き受けながら、ただじっとすることしか許されない。
こんな状態こそ、まさに”Vulnerable”だ。
とても繊細で、とても敏感で、些細なことに傷つきやすい。
非常に不快だけれども、この傷つきやすくなっている状態こそが、自然な、本来の人間の状態だといえる。
理想的な俳優の状態は、こんな風に傷つきやすい状態だ。
俳優が舞台上ですることは、あらかじめ決められている。
脚本は用意され、相手がどう行動するか、自分がそれに対してどう感じるか、そしてどのような言葉を発するか、すべて用意され、それが起こることが約束されている。その約束を覆すことはできない。そのためか、何度も練習を繰り返すうちに、演技はまるでロボットのように単調になり、とても味気なくなってしまう。
すべてが計算づくで起きているような世界は、現実にはあり得なくて、実際の人間は常に傷つきやすさを抱えている。それは何も人前に立つ時に限ったことではなく、生きている限り、人は常にリスクにさらされているといっても過言ではない。
この傷つきやすさを、脚本という守られた世界の中で忘れてしまうことが、演劇が劇的にならない一つの要因なんじゃないか?
生きていくのは、そう簡単じゃない。
道で黒人にファックといわれ、地下鉄で物乞いに強く迫られ、人の言っていることが100%理解できない地で。
効きすぎたクーラーの寒さに震えながら、そんなことを考えている。