演劇と珈琲、本と酒。

演劇とか珈琲とか本とか酒とかについて綴られるはず。

なぜ演劇をするのか、という問い。

この6か月は、今までの人生で一番濃い6か月だった。

 

ニューヨークという街は怖いところだ。ハングリー精神をもって生きている間はこれほど魅力的な場所は無いだろう。自分の価値観や生き方、表現を全肯定してくれる豊かな土壌がある。だけど、ひとたび目標を見失ったりやるべきことに追われたりし始めると、途端に押しつぶされる。人、モノ、情報の量とスピードに飲み込まれてしまう。商業的成功や周りからの評価を気にし始めたら最後、自分の軸を永遠に見失ってしまうだろう。

 

自分の前に道をふさぐものは何もないけど、後ろを振り向いたら崖っぷちだ。

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この半年間。自分に問い続けなければならなかったことがある。

「俺はいったい何のために演劇をしているんだろう?」

 

演劇を日がな一日中する。というのは夢見てきた生活のはずだった。実際に夢のような生活だった。脚本を週に4,5本同時に抱えて平日はリハーサルと授業に行き、土日は観劇三昧っていう生活は誰もがうらやむと思う。

 

けれども、楽しいだけじゃやっていけない。これは当たり前だ。

この当たり前のことに気づいたのが、二学期目の中盤だった。役者として3本、脚本家として1本、演出家として1本を抱えていた時期のこと。

 

このとき演出しようと思っていたのはLA LA LAND。言わずと知れたハリウッドのミュージカル映画だ。クラスで仲良くなったフランス人俳優を捕まえてタッグを組み、また彼が同じクラスで見つけたというアメリカ人の女の子を仲間に入れて、即席多国籍演劇ユニットを作った。俺も大はしゃぎして、何とか映画を演劇として成立させようと、夜を徹して演出プランを練ったり、ジャズの名盤を聞きこんだりしていた。

 

が、初リハーサルの前日。二人から連絡が入る。

女の子は体調不良でダウン。フレンチ・ガイは稽古場のレンタル料金を払いたくないという理由でパス。前日からワクワクして準備していた俺にしてみれば、なんじゃそりゃ、である。(そんなフリーダムが許されるのか、しかも前日だぞ!)

だが、ここで怒ったら空気を悪くすると思い、「やりたくない事はしないのが一番だよ!」的なことを言ったりなんだかんだして、リハーサルを延期した。しかし、それ以降女の子との連絡が一切つかなくなり、リハーサルは二度と行われることはなかった。(フレンチ・ガイとはそっけない付き合いになっただけだったけど。)

このとき、自分の中で何かがぼろぼろと崩れてしまった感じがする。

 

自分の意外とヤワなメンタルに辟易したっていうのもあるが、その時以来、演劇をするのってこんなに大変だったっけ、とひどく落ち込んだ記憶がある。

 

二人からのテキストメッセージを見ながら、嘆息する。

「なんで俺は演劇なんてやってるんだろう?」

 

演出の授業で先生にこのことを相談してみた。すると、七十を超えてもなお現役の先生はこう答えた。

「俳優がリハーサルに来なくても、決して妥協してはならない。何かを演劇として表現したいと思ったら、何があっても貫徹しなければならない」

俺はこの言葉を、自分のモチベーション(表現欲)を大切にする、というように理解した。諦めてしまったら本番の喝采を受けることは永遠にかなわないわけで、どんなにボロボロのズタズタになろうとも、やりたいと思ったことを実現する力、欲求、モチベーションの火は絶やしてはならない、ということだろう。

すると、つまるところ、演劇をする理由は、「他ならぬ“自分”が、演劇をしたいから」というところに帰結するんじゃないか。誰かほかの人のためというわけではなく、自分の中にある言葉にできない何某かを表現するためにやるし、それしか納得する理由は得られないんじゃないか。

 

演出に限らず、役者にしても、脚本家にしてもそうだ。

なんで他ならぬ“自分”はこの役の人生を生きてみたいのか?

なんで他ならぬ“自分”はこの物語を書きたいのか?

 

俺はあのとき諦めてしまったけれど、本当にLA LA LANDがしたかったら代わりの女優を探すとか、外でリハーサルするとかやりようはいくらでもあったはずで、諦めてしまった理由はほかでもなく、俺にそこまでのモチベーションがなかったからである。それに尽きる。

 

ただもちろん、演劇は集団創作なので、他人と協力しなければ、いいものは作れない。

だけれども、集団の中で、一人一人がなぜそれをやりたいのか、というところに真摯になるべきだし、逆に、座組一人一人が何を表現したいかわかってる劇は、表現としての強度が強い。

 

何かを表現しようとしてる人にタダ乗りするだけで何か得られると思ったら大間違いだ。自分が表現しようと戦い、葛藤し、自問自答しなければ、演劇をする意味はない。

演劇は楽しくない瞬間が多々ある。つらくて面倒くさくていやだと思う瞬間が多々訪れる。それでも、やりたいと思うのはなぜか。

 

でも、だからこそそれを踏まえたうえで「なぜ演劇をするのか」という問いに対して答える、

「楽しいから」

という単純な理由は、一周回って最適解な気がしている。

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……たいへんだなあ。