演劇と珈琲、本と酒。

演劇とか珈琲とか本とか酒とかについて綴られるはず。

久しぶりに物申したい

幽霊のように徘徊する「日本演劇の衰退」という命題について

 

 「日本の演劇が衰退している」というのは、数名の演劇人が居酒屋で集まれば必ず話題に上る。しかし、ここで大きく「日本の演劇」とひとくくりにされるものは、多くの場合、実際には個々人の観ている/参加している範囲の演劇世界(ジャンル)に過ぎない。そしてたいてい、それは個々人の演劇的な力量(単なる技術的な力量だけでなく、観劇する際の視野の広さをも意味する)と強く結びついているため、彼らが「レベルが低い」と罵ったり、「つまらない」と唾棄する演劇は、そのまま彼らの周りで行われていたり、あるいは自分たち自身が作ったりしている演劇を指し示している。

 

 「日本の演劇が衰退している」と本当の意味で言いたいのであれば、そのような視野狭窄は断じて避けねばならない。本来なら「日本の演劇」が「衰退している」ということの≪実態≫を語らねばならない。にもかかわらず、ただぼんやりとした「日本の演劇が衰退している」という、≪イメージ≫を語る人間が非常に多い。そのため、この「日本の演劇が衰退している」という命題は、その真否に関しては細かく審議されることなく、広く演劇をやっている人たちの間で何となく共有されてしまっており、しかもそれがさも真実であるかの如く広まってしまっているのである。

 

 私は何も、「日本の演劇が衰退している」ということに対して、ここで反論したいわけではない。ただ、その問題を議論する前提としての「日本の演劇」に対する共通理解が、日本で演劇をしている人たちにおいて、あまりにもなさすぎることに対して物申したいのだ。

 

 これは何も、演劇に限ったことではない。政治や経済の場面でも「日本の政治/経済は危機に瀕している」という命題だけが独り歩きし、その雰囲気だけが蔓延しているという事態は往々にして起こる。この場合も、前提となる「現在の日本の政治/経済状況はどうなっているのか」という議論は棚上げされ、各々の狭い視野から見た≪イメージ≫からのみ、あるいはメディアが伝える≪イメージ≫からのみ、日本の政治や経済が語られるのだ。

 

 だがまあ、ここまで書いてみて、殊「演劇」という分野に関してはそのような視野狭窄に陥りやすい性質があるということは認めなくてはならないだろう。そもそも、大多数が共通理解として知っている、あるいは観たことがあると言えるような演劇を制作すること自体がとても難しいだろうし、実現したとしても、その演劇を後世に残していく術は、演劇の原理的に存在しない。

 しかし、日本の現代演劇シーンを語りたいならば、少なくとも平田オリザという人や現代口語演劇という理論について、実際に観たことはなくとも、ある程度前提として知っておくべきではないだろうか。

 でも実際は、一部の自称演劇通たちでもその名前すら知られていないのが、悲しいかな現状なのである。

 

 じゃあどうするか。

 もう頭が回ってないのでここらへんで止めるが、今後少なくともキーパーソンとなってくるのは「批評家」と「プロデューサー」の二つだと考える。20世紀が演出家の世紀だったとすれば、21世紀は「批評家」と「プロデューサー」の世紀になるのではないか、というのが私の考える演劇の未来像だ。