坂口安吾『堕落論』
堕落論。
無頼派の文人、坂口安吾による小エッセイである。30分ほどで読めてしまう。しかし、その芯の意味を解釈し、理解しようとすれば、一生をかけても味のある骨太なエッセイである。
「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」(本文より抜粋)
このセンテンスの中に、堕落論の要旨は完結されている。
すなわち、戦後の混乱の中で生き帰った若者たちは闇屋となって黒い商売をし、取り残された未亡人たちは新たな男の影を胸に抱く。このような「人間の堕落」は至極当たり前のことであり、人間の本性である。人間は堕落するものであり、武士道や貞操を守っている状態のほうが不自然なのだ。
だからこそ、この堕落を防ぐのではなく、むしろ一度堕落しきることによって、自らにとって新たに守るべき武士道なり貞操なりを見つけなければならない。そうして初めて本当に大切なものを見つけ、人間は救われるのである。
肝要なのは、堕落しろということではなく堕落しきってから這い上がることを説いている点である。
思い当たることが多々ある。
キャンパスを見渡すと、そこにいる人間は所謂「意識が高い」人間か、堕落しきった腑抜けに大別される。両者互いに両者を貶しあっている図が容易に想像できる。腑抜けが貶されるのはまあ、わかる。しかしなぜ「意識高い系」の人間は後ろ指をさされるのか。それは安吾流に言わせれば、彼らが真に堕落しきってないからなのだろう。
意識が高い。
就活アピール。起業意識の高さ。勉強自慢。キャリア志向。等々。
彼らが良いと思っていることは、自分の価値観のものさしで良いと判断したように思えないのだ。他人が良いとしていることに自らの価値基準を添わせているだけのように見えるのだ。
「特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使途たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そしてあるいは天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。」(本文より抜粋)
ここでいう「特攻隊の勇士」「未亡人が使途たること」「天皇」が幻影であるのと同様に巷にあふれる「華々しいキャリア」「年収1000万」「著名社会人多数来場!」も幻影であると私は考える。
堕落するのは簡単だ。
しかし堕落しきるのは難しい。
そういう意味では、私含め腑抜けどもは開眼しなければなるまい。
余談。
リア王も、国も娘も捨てて、全部捨てて裸になる。そして嵐の中で叫ぶ。
墓の中にいた方が、裸の身で天空の暴虐に耐えるよりましであろう。人間とはこれだけのものか?この男をよく見ろ。蚕に絹を借りず、獣に皮を借りず、羊に毛を借りず、猫に香水を借りず・・・ところがだ!わしら三人を見ろ、みんなまぜものばかりだ。おまえだけが物そのものだ。・・・脱いでしまえ、こんな借り物は脱いでしまえ。おい、ボタンを外してくれ!(W.シェイクスピア『リア王』より抜粋)
失えるものはすべて失って、そのあとに残るものがリアにとって、人間にとっての本質だった。
近いものがありそうだ。